連載②業界史の断面・忘却前夜の カウンターで・・・。亜美伊 新vs湯本隆信

「和風」から「洋風」に、主役はベッド

湯本 前回は「ラブホテル」の起源は江戸後期であることは、通説ではあるが、現在の形態をより鮮明にしたのは、「モーテル」が跋扈しだした1960年(昭和35年・以下同)代初頭という位置付けでした。一方、都市部においては、「連込み旅館」「逆さクラゲ」といわれる時代ともいえます。この時代に業界の“施設”は、どう変化してきたといえますか。
亜美伊 前回の終盤にでてきたように、「モーテル」の出現ということですが、その背景となっているのは、日本の経済力の向上ですね。車社会への扉が開いた訳です。都市部の旅館でも、木造からビル型に変化していく時代でもあるわけです。さらに変化してくるのは、1970年( 同45年) 代以降ということになります。
湯本 1972年( 同47年) に「モーテル」は5,919店舗(警察庁発表)となり、「モーテル規制・風俗営業等取締法の一部改正」を行っています。そして、翌年、73年にラブホテルの象徴ともいえる「目黒エンペラー」(東京)がオープン。一般社団法人に変わりましたが、「(社)日本自動車旅行ホテル協会」の設立も、同年です。
 客室は、どのようなデザインでしたか。
亜美伊 大きく分けると、60年代は、もちろん「和風」でしたが、70年代は「和洋折衷」となり、80年代は「洋風」となっていく訳です。
 「和風」あるいは「和洋折衷」の客室は二間になっていて、寝室がある部屋は、階段の一段分ほどの段差を設けていました。ここに、80年(同55年)代前後には特注の和風ベッドが鎮座していたわけです。
湯本 「御所車」「京都」「王冠」「本御所」……これらは、当時、ベッドメーカーとして活躍していた、「モールドベッド産業」(代表・橋場功雄)を描写した『人、旅に暮らす』(足立倫行・現代教養文庫)に詳しいですね。ベッド1台が、60万、70万円とか。
亜美伊 もっと高額なベッドもありましたよ。なにしろ、今日と違って客室の主役でしたからね。
湯本 その後に、亜美伊さんは、「外車」を改造してベッドに。さらには、「お召し馬車」、動く「機関車」、「大型貝殻」「電動円形ベッド」などなど、さまざまのモノがベッドに化けている。前後に動く「機関車」のベッドには、ほとほと感心しましたが……。
亜美伊 もう、何でもベッドにしましたね。客室の主役ですから。ただし、時流、時の流行に合わせて、企画・プロデュースしたわけです。ベッドそのものを。
 そのために、階高は4500mmほどの天井高をとるわけです。通常ならば、3100位ですがね。

弱電の登場はベッドパネルから

湯本 設備としては、何がありましたか。
亜美伊 70年(同45年)初頭に、「8トラ」のカラオケがでましてね。これも、ホテルに入れました。今のように、テレビモニターと連結しているわけではなく、テープのカラオケに歌本があるだけです。今日のように、「通信カラオケ」で曲と映像が流れてくるというのは、想像もできない時代です。同時期、さらにヒットしたのは、「自画録」でしょう。正式名称は違いますが、これは、ベッドの側にテレビモニターを設置してライトを照らし、自分たちの行為を自動録画し、再生して自分たちが視聴、自動的に消去するというものです。白黒で100数十万、後にカラ―テレビ(1975年)が発売されると300万円以上したような記憶があります。1台ですよ。それを、20室規模の新築ホテルに10数台入れたところ連日連夜超満員、道路が渋滞して所轄に呼び出され、怒られた記憶があります。
湯本 10数台ということは、「自画録」だけで、3000万〜4000万円と
いうことですか?
亜美伊 そうです。今日と違って、“豪”の経営者の方々は、少なくなかったですね。“お客さまが喜ぶ”ことは何でもやる、という考えです。設計・デザイナーも同じですよ。チマチマしたデザイナーのマスターベーションでは、お客さまと目線が違いすぎるように思いますよ。
 この「自画録」ですが、物凄く売れた商品でしたが、幾つか欠点がありましてね。そのひとつは、録画のためのライトが熱すぎて、火傷をする思いでした。また、この録画のテープが不具合が生じると絡むわけです。そうすると、カセットを変えるわけですが、消去はできていないわけですよ。流出したら大変なことですよね。
湯本 いゃ、流出していたんですよ。某週刊誌が北陸地方の市会だか県会議員だかが写っていたテープが流出して問題にしたことがありました。しかし、これほど高額なものが、人気もあって売れたのに、なぜ、製造をストップしたわけですか。
亜美伊 法的には一切、問題はなかったわけです。多少のトラブルがあっても、人気は抜群でしたね。ところが、大阪府警の方から、「自粛願い」がでて製造を停止したようですよ。これを製造・販売した、ビデオサウンドシステムの山田社長から聞いた記憶があります。
湯本 後に(株)アステックに社名変更している社長でもあり、2009年に故人となられた、山田昌一さんですね。
亜美伊 このビデオサウンドという会社は当時、業界でもっとも開発・企画力のあった弱電メーカーでしたね。関東の弱電メーカーもビデオサウンドと取引していたようですよ。初期のベッドパネルはビデオサウンドが製作していたように記憶しております。
湯本 初期のベッドパネルはどのような?
亜美伊 照明の「入切(イリキリ)」です。その前に、「三路(サンロ)をカマス」というのですがね。これは、今では一般家庭でも、例えば玄関で廊下のスイッチを入れて、進んでいって前方のスイッチで照明を切る。これを「三路」というわけです。客室の入口でスイッチを入れて、ベットパネルのスイッチで照明を切る。もちろん、この「入切」からすぐに調光にいくのではなくて、ベッドパネルに10cmほどの溝があって、そこにツマミが付いていて、それを上下で、いわゆる調光にしたわけですね。これも、ビデオサウンドが製作していたわけです。したがって、納入先はベッドメーカーということですね。大阪では、「ダイツー」「日産ベッド」、「ビケン」といったところでしょうか。
湯本 ヨーロッパからの「真鍮ベッド」の場合は、どうされていましたか。大阪に「伊和貿易商会」がありましたが。
亜美伊 ベッドに組込ではなく、枕元にボックスを置いてセットするわけです。
湯本 1970年代、80年代の客層ということになると、いかがですか。
亜美伊 70年代後半から、経済が右肩上がりになって、80年(同55年)に「バブル」に突入するわけですね。社会風俗では、「ノーパン喫茶」が78年に京都で誕生しています。さらに、80年に入ると深夜のテレビ番組が、盛んに「イロもの、エロもの」に入っていくわけです。それらの背景からか、業界のホテルの利用者の多くは、いわゆる一般のアベックが圧倒的に多かったと見ていいでしょう。もちろん、地域・立地にもよりますが、多くは今日の状況とは違うように思います。これは、設計・デザイナーとしての持論ですが、「誰が、面白くもない利用者・従業員は…。部屋に来てくれますか」、「面白くもなければ、マスコミも採り上げない」。ということです。もう少し、利用者目線で、お客様目線で本物の「ラブホテル」、「性の空間としての舞台」をデザインして欲しいと思っています。そうすることによって客層は、より「一般のアベック」に支持されることになると思います。
湯本 従業員については、いかがですか。
亜美伊 本誌の前号で、多くの若い現場の女性が登場していましたよね。業界にとっては、大変素晴らしいことです。70年代・80年代というのは、多少「訳あり」の従業員もいたように思います。そのために、ホテルの空間に従業員宿舎を設ける。或いはホテルの裏側に寮を造るというようなことも少なくなかったようです。
湯本 角田光代に『八日目の蟬』(中公文庫)という小説があります。そこに登場してくる誘拐犯の女性が一時、隠れる場所がラブホテルでした。そのホテルには、寮というアパートが用意されていたからです。
亜美伊 そういう時代もあったかも知れませんが、そのためにも、いわゆる「一般のアベック」に喜んで利用していただける「空間」を造って欲しいわけです。
 この70年代後半から、80年代の10年間が、もっとも多くの「レジャー・ラブホテル」が建設された時代ともいえますね。
湯本 その拡大時に変化をもたらせたのが、1985年( 同60年) の「新風営法」の施行であり、行政的に「ラブホテル」の誕生ということになるわけですね。
亜美伊 そうです。その時点でデザインが大きく変化していくわけです。
湯本 次回は、1985年前後から、探っていくことにしましょう。

PROFILE

㈱アミー東京デザインルーム 代表
 亜美伊 新
(あみい・しん)
1945年生まれ。80年前後にレジャー・ラブホテル業界の設計・デザインで一世を風靡。現在は多くの実績と人脈で、業界の総合コンサルタント業務に携わっている。特に、ホテルの売買・金融・外資の投資家からの信頼は厚い。
掲載 LH-NEXT vol.17(2013年7月31日発刊)