業界史の断面・忘却前夜の カウンターで・・・。亜美伊 新vs湯本隆信

 彼の、文学博士であり、歴史作家でもある・樋口清之(1909-1997)は、「ラブホテルの起源は江戸後期である」と唱えていた。その根拠として「出会い茶屋」や「お手引き茶屋」ということになるのだろうが、近年のレジャー・ラブホテルの流れをみると、「戦後」からの進化の中にこそ、原形があるようにも考えられる。それは、経済や風俗文化の変化が1960年(昭和35年・以下同)以降と考えられるからだ。そこで、1960年代後半から1980年代に活躍した、亜美伊 新氏と業界の断面を語ることにした。

レジャー・ラブホテルの始まりは「モーテル」か

湯本 レジャーホテル・ラブホテルの起源が江戸後期であることは疑問の余地はありませんが、現在の原形といいますか、進化の状況をみると、いわゆる「モーテル」の存在は重要と考えます。そこで、当時の流れ、業界史の断面を、記憶の中から引出していただければと思うのですが……。
亜美伊 確かに、レジャー・ラブホテルの起源が江戸後期であることは、疑うことはできないでしょうね。多くの文献が、日本の風俗文化として、江戸後期の「大らかな性」について残っているわけですから。しかし、仰るように今日のレジャー・ラブホテルの原形ということになると、やはり、「戦後」であり、むしろ1950年代後半のような気がしますね。つまり、昭和30年代ですが、日本の経済が右肩上がりとなって、1958年(昭和33年)には、「売春防止法」が施行されるわけです。この時代から、今日への系譜が始まると見るべきでしょうね。
湯本 若干、あやふやなところもありますが、59年(同34年)に「モーテル1号」が神奈川県箱根町にオープンしています。今から、54年前です。当時の経済事情は、池田内閣の「所得倍増計画」が発表される前年であり、「自家用車」は200万台を超え、60年 (35年)には東京都の人口が1,000万人を突破、「カラ―テレビ放送」が開始されたところでした。「株価暴落」があるものの、経済の上向きを予感させる時代でしたね。
 亜美伊さん(先生と呼ぶべきかも知れませんが……)が、「モーテル」を設計・デザインされたのは、いつごろですか。
亜美伊 1965年(同40年)でしたね。21歳の時です。
湯本 当時は、まだ「モーテル」が1,000店もない時代でしたでしょうか。と、いいますのは、それから3年後の68年(同43年)の「モーテル軒数」を警察庁が発表しておりまして、その時の軒数が、1,413店でした。66年(同41年)には、業界トップの軒数(グループで140店舗ともいわれた)を誇った、後に㈱アイネシステムとなった小山立雄氏(2011年9月死去)の1号店、「レジャーハウス美松」(埼玉・熊谷)がオープンしております。ところで、当時、大阪に住まわれていて、どのような流れで「モーテル」の設計に……。
亜美伊 当時の、この業界のホテルのオーナーさんの多くは、幾つかに分けられると思います。たとえば「モーテル」ではなく、いわゆる「連込み旅館」・「逆さクラゲ」といわれるような都市の街中の施設は、料亭や商店主、さらには大阪では、飛田新地・十三のオーナーさんが旅館の経営に参入される例もありましたね。郊外の「モーテル」に参入する多くは、地主・あるいは土地を売却して現金を手にした方々も少なくはなかったですよ。私が最初に手掛けた「モーテル」のオーナーさんは、日本万国博覧会の会場用に土地を売却された方ですね。竹林でしたけど……。

「モーテル」と「連込み旅館」時代

湯本 いま、仰られた「連込み旅館」「逆さクラゲ」と呼ばれた施設は、「モーテル」が出現する前から存在していた訳ですよね。「東京オリンピック」が開催されたのが64年(同39年)、そのために千駄ヶ谷(東京)にあった「連込み旅館」が行政によって消えたという記録がありますが、施設の特徴はいかがですか。
亜美伊 共同風呂・共同トイレ。トイレは汲み取りです。玄関を入ると下足を預けて、というよりも没収されてね。途中で帰れないように。これらが、街中の施設。レジャーホテル・ラブホテルの一方の原点かも知れませんね。時代が時代ですから。これらの施設とクロスして、1960年代(同30年代後半)にモータリゼーションの時代に入り、郊外に「モーテル」ができてくるわけです。
 私が設計した第一号は、大阪の奈良寄り、10室の「バンガロー」タイプの戸建でした。
湯本 10室の「バンガロー」タイプ。建設費としては、いかがでしたか。
亜美伊 ルーム当り、約200万円ちょっと。当時は「モーテル」という言い方よりも、関西方面では「カーテル」という言い方の方が、多かったような気がしますね。その後に設計したのが、28室の大型のものです。これは、18の戸建と10ルームの連棟の、いうなれば複合型のものでした。
湯本 ずいぶん、大きいですね。といいますのは、この1月に刊行された小説に『ホテル ローヤル』(桜木紫乃・集英社)という作品があります。小説とは言い難いものですが。それをみると「モーテル」タイプで部屋数は6室となっております。
亜美伊 6室というのは、当時の旅館・ホテルとしての最低部屋数ということですね。多くの地方での初期は、6~10室位が多かったように思います。しかし、よく入りましたよ。つねに満室ですから。部屋数も拡大していくわけですね。
湯本 当時の客室内というのは、いかがでしたか。
亜美伊 「モーテル」の初期というのは、特別な空間創りということはなく、マットに布団を敷いて、頭の部分に「宮」(みや)というものを置いただけです。
湯本 亜美伊さんのデザインの特徴でもある、オリジナルのベッドは……。
亜美伊 ベッドが注目を集めてくるのは、後年ですね。70年代(同45年)に入ってからです。60年代(同35年)は「所得倍増計画」であり、風俗では「ピンク映画」といわれた「大蔵映画」のスタートでもあるわけです。
湯本 62年(同37年)に「大蔵映画」の「肉体の市場」(小林悟・監督)が公開されています。経済が上がって、風俗文化が拡大していく。当時の客層というのはいかがですか。
亜美伊 郊外の「モーテル」は、ごく一般の若者のアベック。恋人同士といったところでしょうか。一方、街中の
「連込み旅館」等は「売春防止法」施行の関係も大いに影響したと思いますが、いわゆる“玄人”の女性も少なくなかったように思います。今日的にいえば、デリヘルの利用といえるかもしれません。いずれにしても、風俗文化が開花していく土壌は整いつつあった、ということです。
湯本 そして、オリジナルベッドが出現し、今日の“弱電”関係の背景が生まれることになる、ということですね。

<季刊『LH-NEXT』vol.16掲載>

PROFILE

㈱アミー東京デザインルーム 代表
 亜美伊 新
(あみい・しん)
1945年生まれ。80年前後にレジャー・ラブホテル業界の設計・デザインで一世を風靡。現在は多くの実績と人脈で、業界の総合コンサルタント業務に携わっている。特に、ホテルの売買・金融・外資の投資家からの信頼は厚い。
掲載 LH-NEXT vol.16(2013年4月30日発刊)